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手織りペルシャ絨毯の歴史概要

◆パジリク絨毯 (パズィルィク絨毯)
約183×198㎝
ロシア、サンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵
サファヴィー朝ペルシアの栄華を今に伝える
◆マスジデ・エマーム (エマーム・モスク)
現存する最古の絨毯は、ロシアの考古学者ルデンコが、1949年、南シベリアのアルタイ山中で、遊牧民スキタイ系マッサゲタイの王墓と思われるパジリク(パズィルィク)古墳5号から発掘した約2m四方のペルシャ絨毯で、紀元前5~3世紀頃のものと推定されている (第5号墳は1991年のデータではB.C.390~B.C.370とされている) 。発見された場所名にちなんでパジリクと名付けられたこのペルシャ絨毯の製作技術は、今日のものと変わらない高度なもので、閉鎖型・左右均等結び(トルコ結び)が用いられていた。
また、ルデンコはその数年後、パジリク渓谷の西約180kmのバシャダール古墳でさらに密度の高い織りをもつ絨毯の断片を発見。こちらは開放型・左右非均等結び(ペルシア結び)で、パジリクの絨毯より、さらに130~170年遡るものあった。紀元前の世界において、すでに手織りの技術が必ずしも一様でなかったことを示唆している。
2. ペルシャ絨毯の開花
イランでは、パルティア王国(前250-後224)とサーサーン朝(224-651)時代の遺跡シャハレ・グーミースから出土した染織品にパイル絨毯の断片が付着しており、これが最も古いペルシャ絨毯の考古資料となっている。ペルシャ絨毯が、今日見られるような絢爛豪華な絨毯として、また、イスラーム世界を代表する染織工芸品として著しくしく発達するのは、アケメネス、サーサーンに続くペルシア人による大帝国が復興された16世紀のサファヴィー朝からである。シャー・タフマースプやシャー・アッバースⅠ世の時代はペルシャ絨毯の古典期とされており、数多くのペルシア絨毯の名品が生み出されている。とくにアッバース大帝の治世には、エスファハーンに都が遷され、新しい首都建設による需要で、数多くの絨毯工房が新設され、金糸・銀糸を使った絹の絨毯(ポロネーズ絨毯)など華麗な絨毯が製作されるようになり、インドのムガル朝やトルコのオスマン朝などにも大きな影響を与えた。
3. ペルシャ絨毯の復興
18世紀、サファヴィー朝はアフガーン人の侵略に遭い、絨毯の生産も一部を除き衰退した。19世紀後半、ヨーロッパから蔓延した病原菌により蚕が絶滅し、それまで主要な輸出品目であった生糸の代替品目として浮上したのが、ペルシャ絨毯だったといわれる。
ウィーン万博などで紹介されたペルシャ絨毯は、ヨーロッパで人気を博し、その需要に応えるため盛んに生産されるようになる。国内、国外資本がイラン全土の産地に投入され、ペルシャ絨毯はやがて輸出品目のトップに躍り出た。第1次世界大戦で市場がヨーロッパからアメリカに移行したりはしたが、ガージャール朝から20世紀のパハラヴィー朝にも絨毯製作は引き継がれ、世界のペルシア絨毯の名を不動のものとした。このように、ペルシャ絨毯は長い歴史と伝統に培われたその美しい文様と高い品質が認められ、オリエンタリズムの風潮に乗り、世界の人々に愛好されるようになった。1979年、イランはイスラーム革命により王制に終止符を打つが、絨毯産業は国の重要な輸出品目となっている。
Pazyryk Carpet & a saddle cover at Bash-Adar
デザインは、5本のボーダーをもち、内外の細いガードにはグリフィン走獣文、中央の細いガードには花文、外の太いボーダーには28体の騎馬像と馬を引き連れた戦士像、内の太いボーダーには24頭のへら鹿(黄鹿)、センターのフィールドは、アッシリア宮殿の入口にある石彫を思わせる花文デザイン(light-symbol cross)の反復文が4×6で配されている。赤の染料にはケルメスが使用されていた。起源に関しては、中央アジア説、アルメニア説、東アケメネスの辺境部にあたるパズィルィク近辺説、アケメネス朝の中心地説などさまざま。
かつてマスジデ・シャー(王のモスク)と呼ばれていたエマーム・モスク。イスラーム建築史上、最高傑作のひとつとされるこのモスクは、サファヴィー朝ペルシアの第5代目当主、英主と呼ばれたシャー・アッバース1世の命により1912年に着手され、26年の歳月をかけて1638年に完成したと伝えられている。
